「甘やかしすぎなんじゃない?」一番近いはずの人からの、いちばん刺さる言葉– 不登校のことを話したとき、私の母がよく口にしていた言葉です。
母は昔から、
- 人さまに迷惑をかけてはいけない
- 世間に恥ずかしくないように
- 「普通」にちゃんとしていなさい
という価値観を大事にしてきた人でした。私自身、そういう母に育てられてきたので、「きちんとしていなきゃ」という気持ちはよく分かります。でも、我が子が不登校になったとき、その価値観が何度も、私の心に刺さるようになりました。
この記事は、
- 不登校を受け入れられない家族
- 「甘え」「育て方」と決めつけてくる身近な人
- 何度説明しても分かり合えない感覚
に、長い間向き合ってきた私の体験と、そこから「説得するのをやめる」という選択にたどり着くまでの話です。

「人に迷惑をかけるな」で育った母と、不登校の子ども
母は、よくこう言っていました。
「人に迷惑をかけないように」
「ちゃんと学校に行きなさい」
「みんなと同じようにしなさい」
良い悪いではなく、母なりの「生きるためのルール」だったのだと思います。でも、我が子はその「普通」の枠から外れていきました。
- 集団生活がつらい
- 学校に行くこと自体がしんどい
- 心も体もすり減っていく
そんな子どもの姿を目の前で見ていると、親としては「人に迷惑をかけないこと」よりも、
「この子の心と命を守ること」が最優先になるのは、自然な流れでした。
けれど、母にはそれが全く理解できないようでした。
3年以上、説明し続けた日々
私は実の親だからこそ、理解してほしいと思っていました。
- 不登校は一時的なサボりではないこと
- 心や体が限界になっていること
- 行かない選択をしても、将来の道は閉じないこと
- いま無理をさせるほうが、ずっと危険な場合があること
テレビの特集を見せたり、カウンセラーさんの言葉を共有したり。母に「なんで学校行けないの?」と質問されるたびに、私はできるだけ丁寧に説明しました。
「みんな行っているのになんで行けないの?」
「いじめられているんじゃないんでしょ?」
「あなたの育て方なんじゃないの?」
何十回と聞かれてきました。そのひとつひとつに、私は真面目に、正面から答えようとしていました。
「理解してもらえれば、きっと楽になる」心のどこかで、そう信じていたからです。
でも、現実は違いました。
何度説明しても、母のゴールは「学校に行っているかどうか」だけ
母との会話は、いつも同じところに戻っていきました。
- 「で、今は学校に行ってるの? 」
- 「給食だけ行くなんてやっぱり甘やかしてるんじゃない?」
- 「行ったなら行ったで‥勉強はついていけてるの?」
行けないときは、「やっぱり甘えじゃない?」という話になり。行けたと話せば、「勉強が遅れて困るわよ」「宿題は?」という話になる。
こちらとしては、
- 子どもが命を削ってまで「行く」を選んだ日
- 一歩踏み出せただけですごいと思った日
の話をしているつもりなのに、母にとっては、「行けたか」「遅れていないか」だけがゴールでした。
どんな話をしても、最終的には「行っているか/いないか」の二択の話に戻ってくる。
私はそれを「完全なイタチごっこ」だと感じるようになっていきました。

「甘やかしすぎなんじゃない?」と言われ、私が固まってしまった理由
ある日、母がぽろっと言いました。
「そこまで休ませちゃうのは、やっぱり甘やかしすぎなんじゃない?」
その瞬間、私は何も言えなくなってしまいました。
反論しようと思えば、言葉はいくらでも出てきます。でも…
- 「行きたいけど行けない」と震える声
- 無理して行った日の、泣き叫びながら先生に連れられていく姿
- 教室でしんどそうに青白い顔をしている姿
それを「甘やかし」と言われるのは、正直、とてもしんどい。でもそのとき、私の心の奥底にはこんな思いもありました。
「私もどこかで、“甘やかしてるのかな” って不安だった」
母に言われて一番苦しかったのは、
母の言葉そのものよりも、私の心の中にも同じ言葉が住んでいたからだと思います。
分かり合えない人を「説得する」ことの限界
3年以上、私は母に説明し続けました。
- 不登校の基本的な知識
- 医学的な話
- 公式データ
- カウンセリングで言われたこと
でも、ある日ふと気づきました。
「母は“不登校を理解していない”だけじゃない。
“そもそも理解する気がないのかもしれない」
母にとっては、
- 学校に行くこと
- 世間から見て「普通」であること
が、何より大事な“生き方の土台”です。
そこを崩すことは、母自身の人生を否定されたように感じるのかもしれません。
「私の価値観を変えてまで、
あなたのやり方を受け入れろっていうの?」
…母の本音は、もしかしたらそういうところにあったのかもしれない、と今は思います。
だとしたら、いくらデータを見せても、事例を話しても、現状を話しても説得は成立しません。
「理解されること」をあきらめたとき、少し楽になった
そこから、私の中で少しずつ変化がありました。
もう、母を説得するのをやめよう
そう決めたのです。
- 説明しても、分かってもらえない
- 分かってもらえないたびに、私が傷つく
- 傷ついた私が、子どもの前で余裕を失う
このループに、終わりをつけたかった。だから私は、自分の中でルールを決めました。
- 母には「学校に行っている/行っていない」の細かい話はしない
- 質問されても、深くは答えない
- 「そういう考え方もあるよね」と、心の中で距離をとる
最初は罪悪感がありました。
- 「実の母なのに」
- 「孫のことなのに隠しているみたいで悪いかな」
- 「もっと説明すれば、いつか分かってくれるかもしれないのに」
でも、何度も同じ場所で心をすり減らしてきた自分を思い出して、
「もうこれ以上、自分を傷つけるのはやめよう」
と、少しずつ自分に許可を出していきました。

「分かってくれる人」と「分からない人」を分ける勇気
不登校のことを話す相手は、「実の家族だから」「親だから」という理由だけで選ばなくていい――
今はそう思っています。
- 話を聞くだけでも疲れてしまう相手
- 何度説明しても「結局は甘えじゃないの?」で終わる相手
- 「学校に行くかどうか」しか見てくれない相手
そういう人に、心のエネルギーをたくさん使い続ける必要はありません。
その一方で、
- 話を最後まで聞いてくれる人
- 答えがなくても、一緒に考えてくれる人
- 学校に行く・行かないではなく、そのままの子供を見てくれる人
そういう人たちと少しでもつながれたら、それだけで、親の心はだいぶ違うと思います。
「分かってくれる人」と「分からない人」を分けることは、誰かを嫌いになることではなく、
「自分の心と家庭を守るための、静かな線引き」
なのかもしれません。
身近な人に不登校を理解してもらえず、つらさを抱えている方へ
もし今この記事を読んでいるあなたが、
- 親に理解されない
- パートナーや義実家に責められる
- 家族の言葉に毎回傷ついてしまう
そういう状況の中にいるとしたら。
あなたは、何も間違っていないと伝えたいです。
不登校を受け入れてあげたいと思う気持ちも、子どもの心と命を優先したい気持ちも
「この子のペースを守りたい」という思いも、全部、親としてとてもまっとうな感覚です。
世の中には、
- 「甘えだ」
- 「根性が足りない」
- 「行かせなきゃダメ」
と簡単に言えてしまう人もいますが、そう言えるのは、
その苦しさの真ん中に立ったことがないからかもしれません。
最後に:分かり合えない相手を変えようとしなくていい
不登校の渦中にいるとき、私たちはどうしても「正解」を探そうとしてしまいます。
- 家族に分かってもらうには、なんて言えばいいんだろう
- どの言葉なら伝わるんだろう
- もっと上手に説明できれば、分かってもらえたのかな
でも今の私は、こうも思います。
分かり合えない相手を変えようとすることに、
自分の大事なエネルギーを使い切ってしまわなくていい、と。
私たちが本当に力を使いたいのは、
- 毎日を何とかやり過ごしている子ども
- 一歩一歩、自分のペースで進もうとしている子ども
- そして、その子に付き添っている自分自身
ここに向けて、エネルギーを残しておくことなんだと思います。
「甘やかしすぎなんじゃない?」と誰かに言われても、自分の中で、そっとこう言い換えてみてほしいです。
「いいえ、私はこの子を守ろうとしているだけです」
身近な人に理解されないつらさは、簡単には消えません。
それでも、あなたが今日も悩みながら、「この子のことを考え続けている」という事実は、決して間違いではないと、私は信じています。
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